丸文の歩み
陸送隊の時代 -黎明-
終戦から数年が経った、創業当時の昭和25年(1950年)頃、商品車の輸送は「自走による陸送」がほぼ唯一の方法でした。
自走とは、陸送員が商品車を運転して納車し、夜行列車で帰社する、というもので、陸送員は皮のジャンパーに絹のマフラーという複葉機時代の飛行士さながらのスタイルでした。
当時の商品車である三輪トラック(別名:オート三輪)は、『バイクのようなバーハンドル、ガラスは前だけ』というもので、お若い方は映画や漫画等でしか見たことがないかもしれません。
右の写真は、隊列を組み目的地に向かう、当時の陸送隊の様子と、弊社の創業当時のメンバーの集合写真です。
自走とは、陸送員が商品車を運転して納車し、夜行列車で帰社する、というもので、陸送員は皮のジャンパーに絹のマフラーという複葉機時代の飛行士さながらのスタイルでした。
当時の商品車である三輪トラック(別名:オート三輪)は、『バイクのようなバーハンドル、ガラスは前だけ』というもので、お若い方は映画や漫画等でしか見たことがないかもしれません。
右の写真は、隊列を組み目的地に向かう、当時の陸送隊の様子と、弊社の創業当時のメンバーの集合写真です。
倒立式車両運搬車の時代 - 積載車輸送の幕開け -
さて、昭和30年台に入ると、自動車の生産量も急速に増加してきました。
「自走」という従来の輸送スタイルでは今後、多くの商品車を運んでほしいというお客様のご要望に応えることが困難になることが予想されたため、輸送方法の効率化が必須の情勢となりました。
この当時、トラックによる積載輸送は既に始まっていましたが、効率としては自走と大差無く、状況は変わりませんでした。
試行錯誤の末、積載車を開発し、一度の運行で複数台の商品車を運搬する「積載車輸送」を開始。
弊社の輸送スタイルも一変することになりました。
当時、積載車開発の陣頭指揮にあたっていた横田秀雄(故人:当時専務)は、後の創業40周年記念誌のインタビューで、このようなコメントを残しています。
「自走」という従来の輸送スタイルでは今後、多くの商品車を運んでほしいというお客様のご要望に応えることが困難になることが予想されたため、輸送方法の効率化が必須の情勢となりました。
この当時、トラックによる積載輸送は既に始まっていましたが、効率としては自走と大差無く、状況は変わりませんでした。
試行錯誤の末、積載車を開発し、一度の運行で複数台の商品車を運搬する「積載車輸送」を開始。
弊社の輸送スタイルも一変することになりました。
当時、積載車開発の陣頭指揮にあたっていた横田秀雄(故人:当時専務)は、後の創業40周年記念誌のインタビューで、このようなコメントを残しています。
『 「1台でも多く積める方法はないか...。」 と思案の日々だった。
ある日、ふと玄関に目をやると片づけられた下駄が目にとまった。
「下駄は歯をあわせるとコンパクトになる。」
それが 「倒立式車両運搬車」 誕生のきっかけだった。
下駄が身近にあった時代だったのが幸いしたかな。
そうでなかったら思いつかなかったかもしれない。』
ある日、ふと玄関に目をやると片づけられた下駄が目にとまった。
「下駄は歯をあわせるとコンパクトになる。」
それが 「倒立式車両運搬車」 誕生のきっかけだった。
下駄が身近にあった時代だったのが幸いしたかな。
そうでなかったら思いつかなかったかもしれない。』
倒立式車両運搬車の登場は、陸送業界の大量輸送時代の口火をきることとなり、弊社の取扱い台数は一挙に前年の約2倍に跳ね上がりました。
大量輸送時代 - 近代的積載車輸送の確立 -
躍動の時代 - 積載車開発の新たなステージ -
温故知新
故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る -温故知新- - 先人の知恵に学び、真摯に取り組むことの大切さ -
ある日のできごと
ある日、棚の奥のダンボール箱を整理していたらセピア色の古い写真が大量に出てきた。その中から貴重な資料をいくつか紹介してみたいと思う。 それは今から半世紀以上前、自動車先進地域ヨーロッパのキャリアカーを研究するために先輩たちがイタリアで撮影してきたものだ。 まだ、日本人が海外へ渡航することもままならない時代、『覚悟の』視察旅行だったに違いない。 説明するまでもないことだが 『キャリアカー』 とはクルマを運ぶクルマ = 車両運搬車 のこと。言うなれば仕事グルマ、商用車なのだが...。 どうだろうこのたたずまい。さすがデザインの国イタリアだ。
トラクター・トレーラーの造形
このクルマのたたずまいが "ちがう" と感じさせる理由は、やはりその造形にあるだろう。 後述するが、上段フロアを支える柱の曲線的な形状がその主な理由だ。現在のキャリアカーは一般規格鋼材を使用して製作しているため、ここまでの優美さはない。 しかし補強の取り方、枠構造の荷重の逃がし方などは見事に現代に生きている。
トレーラーを後方から見ると上段フロアを横に走る支柱が湾曲していてさらに縦の支柱も「く」の字に曲げてある。 アーチトンネルのような構造にして上段フロアに積んだクルマの荷重をうまく逃がしているのだ。 走行中の左右方向の動揺を抑えるのにも有効なはずだ。ここまでのアーチを作る手間にはただ感心するしかない。
キャリアカーとしての機能
2階フロアを支えるために柱を立ててその柱が倒れないように斜めの桟を設けている。 現在の一般的なキャリアカーは上段フロアが油圧シリンダーやワイヤーロープで昇降するが、このトレーラーは柱とフロアが溶接されていて昇降しない構造であることがわかる。 これでは上段にクルマを積み降ろしすることができないのでは?と思うだろうが、トレーラー後端部の複雑な構造に注目してほしい。 最後部に折りたたまれている枠はクルマを載せる "プラットホーム" であり、これをワイヤで昇降させることにより、上段フロアへの積み降ろしを行うのだ。いわゆる "テールゲートリフター" である。残念ながら詳細な資料は残っていないが、このテールゲートリフターで上段に載せる作業を是非見てみたかったものだ。 この荷役方式は後のテールゲート型セミトレーラー開発に大いに参考になっただろう。
載っているクルマにも注目!
キャブの上とトラクタ側下段の車は、
FIAT600 (セイチェント)
ドアノブが前のほうに見えるので初期型だ。1955年から生産がはじまった車だ。
FIAT600 (セイチェント)
ドアノブが前のほうに見えるので初期型だ。1955年から生産がはじまった車だ。
その後が、
FIAT1300 (ミッレ・トゥレチェント)
1963年には日本にも輸入され、その高性能ぶりは当時の国産小型車の設計に影響を与えたと言われている。
FIAT1300 (ミッレ・トゥレチェント)
1963年には日本にも輸入され、その高性能ぶりは当時の国産小型車の設計に影響を与えたと言われている。
トレーラー側上段の3台、下段前方の2台は、有名な
FIAT500 (チンクチェント)
イタリアではこの車を保護するための法律まで作られようとするほど愛されている。この車もドアノブが前でヒンジが後にあるので 『nuova500』。イタリア車の資料としても貴重な写真だ。
FIAT500 (チンクチェント)
イタリアではこの車を保護するための法律まで作られようとするほど愛されている。この車もドアノブが前でヒンジが後にあるので 『nuova500』。イタリア車の資料としても貴重な写真だ。
トレーラー下段後端に載っているのは、
FIAT500 GIARDINIERA(チンクチェント ジャルディニエラ)
"ステーションワゴン"という意味。
チンクチェントの後部座席は大人1人が横に向いて乗るのがやっとだが、ジャルディニエラは流石に余裕があり、大人2人が前に向いて乗れるだけの長さがある。エンジンはチンクチェントと同じ500ccではあるが搭載方法や形状がまったく違う専用設計品である。
FIAT500 GIARDINIERA(チンクチェント ジャルディニエラ)
"ステーションワゴン"という意味。
チンクチェントの後部座席は大人1人が横に向いて乗るのがやっとだが、ジャルディニエラは流石に余裕があり、大人2人が前に向いて乗れるだけの長さがある。エンジンはチンクチェントと同じ500ccではあるが搭載方法や形状がまったく違う専用設計品である。
興味深いのは、同じFIAT500でも仕様の違いがみられることだ。
たとえばトレーラ側上段の3台はホワイトリボンタイヤが装着されているが、下段の2台はノーマルタイヤだ。おそらくグレードの違いだろうと想像できるが、当時の資料がなく詳しいことはわからない。
識者の方にはぜひご教示をお願いしたい。
たとえばトレーラ側上段の3台はホワイトリボンタイヤが装着されているが、下段の2台はノーマルタイヤだ。おそらくグレードの違いだろうと想像できるが、当時の資料がなく詳しいことはわからない。
識者の方にはぜひご教示をお願いしたい。
ありがとう
2005年3月31日
ひとりの技術者が丸文特装部を去りました。
名前はSさん。
特装部において福祉車の開発を製造技術面で支え続けてくれた人でした。
10年前、当時誰もが不可能だと思っていたモノコックボディの改造を、大胆な発想と卓越した溶接技術で成し遂げ、軽福祉車両の世界を切り開いてくれたパイオニア技術者でした。
特装部最年長であり、温和な人柄と確かな技術力で多くの若手技術者を育成してくれた人でした。
別れ際、ひとりの若手技術者にあなたが掛けてくれた言葉を私たちは忘れません。
「がんばれよ、あんたは大きくなれる。」
ありがとう、Sさん。いつまでもお元気で!
2005年3月31日 特装部一同
ひとりの技術者が丸文特装部を去りました。
名前はSさん。
特装部において福祉車の開発を製造技術面で支え続けてくれた人でした。
10年前、当時誰もが不可能だと思っていたモノコックボディの改造を、大胆な発想と卓越した溶接技術で成し遂げ、軽福祉車両の世界を切り開いてくれたパイオニア技術者でした。
特装部最年長であり、温和な人柄と確かな技術力で多くの若手技術者を育成してくれた人でした。
別れ際、ひとりの若手技術者にあなたが掛けてくれた言葉を私たちは忘れません。
「がんばれよ、あんたは大きくなれる。」
ありがとう、Sさん。いつまでもお元気で!
2005年3月31日 特装部一同